「事あれ主義」の勧め、事なかれ主義・責任の不在

原発事故の危機管理能力の欠如を、昨年3月16日、つまり大震災の5日後に書いたのであるが、今改めて読み返し、わずか5日後の指摘が、1年経過しようとしている今も、2012年2月20日でも、未だに続いている現状に、呆れるばかりであるが、この驚くべき責任の不在の、日本人全体に内在する、「心の闇、心の病み」を思考してみたいと思う。

この大事故、原発の暴発は、以後数十年、いや100年以上、国民を苦しめることとなるわけであるが、そのような事態に直面し、茫然自失としているだけでは、何の解決にもならないわけであるが・・・

では、驚くべき責任の不在は、どうして起こるか。
責任は、決断・実行する人間の行為に、必然的についてくるはずであるが・・・
日本人の思考特性からアプローチしてみよう。

(1)まず、先例を探す特性、前例主義が大好きである。
前例主義は、実は、無責任主義に類似している。
「誰か先人がやって、成功したことを取り入れる」「西欧で主流となった技術を取り入れる」誰かが成功したことを取り入れるだけであるから、導入者は導入しただけであり、導入は、意志というよりは慣習(すなわち決断の不在―責任の不在)、もし失敗しても、それは最初の先人・西欧が悪い、自分は客観的存在と唱える。
つまりは、決断していないのであるから、責任はない。

(2)結果非想定主義、結果全肯定主義。
失敗することを想定しない、想定したくない。
したがって、失敗しないのであるから、責任の所在を明確にする必要ない。
原発開発者や原子力安全委員会の言う、「想定外」に象徴されるように、
成功することのみ想定したい、津波が20mあるような失敗の可能性や、
全電源喪失という、失敗の可能性は想定したくない。
想定してない(したくない)が、実際に起こってしまったので、想定外だから、自分は責任ない。
世間で言う「不可抗力」と言う論理。

(3)そもそも責任がある意識がない。
権力の行使、権力の所持には、日本人も人一倍執着あるが、
権力には、非常なる責任が伴う、という意識そのものがない。
会社の社長は、お金をもらい、社会的尊敬を受ける権利はあるが、
いざ損失を、株主・会社自体に与えても、それは経営責任でなく、社会情勢のせいである。
従い、無念の退任をする(これは責任を取ることではないと思うが)事以外は、
何の行為もする必要はない。

大きく分けると、上記思考の塊が、日本人の特性である。
これを、政治・国家のレヴェルから、日本経済あるいは、わが業界の商社マンにもあてはめると、同じような無責任主義は、順調な経済成長時には、問題は表面化しないが、危機や正念場では、非常な問題を抱えることとなる。

(1)主力産業が停滞し、新規産業イノベーションが、今求められているが、
斯様に新規産業の開発は、日本人には向いていない。
前例主義が一番好きなので、新規産業なんて、誰も今までやったことないので、
どうやってよいか判らない。
そんな産業ニーズが、将来の人類に起こるとは思えない、思考停止したい。
個々の会社レヴェルでの、新規事業・新規客先開発の局面でも、
今まで、誰も社内でそのようなことをやったことがない、どうやっていいか判らない。
自分が判断し、実行しなければならない、それには責任が伴う、
だから嫌だ、というような思考回路が特質。

(2)結果全肯定主義にては、失敗を全く想定していないので、
日本経済においては、成功体験に拘泥こうでいし、打つ手が遅れる。
個々の会社レヴェルでは、例えばクレーム発生したとき、
すなわち、危機の状況には、担当はクレームを想定していないので、担当は責任取る自覚が欠如して、且つ前例主義で、商売を客観的に受け継いだ(上記での導入しただけ)なので、自分はその商売を「決断」していないので、従い、責任を取る覚悟ない。
だから、解決策など想定していない、という思考回路が、蔓延していることとなる。

日本民族の意識構造は、では悪いか・・・というと、
もう一つの特性、「諦観ていかん」(全てをあるがままに受け入れる能力と言い換えてもいいが)によって、奇妙なバランスが取れている。

無責任体制――危機を非想定――まさかの危機発生――対策の欠如――決断の欠如により、
事態はどんどん悪化するが、悪化の先には、諦観する国民がいるので、
国家破壊にはならないで済むような国家体質がある。
諦観により、その事態を受容し、その受容からすこしずつまた、好循環を取り戻す特性も、また日本人の特質である。

戦後の復興は、その象徴であり、経済が破綻しても、恐らく、
ギリシャのような暴動も起こらなければ、失業率の上昇、貧困が進んでも、
それを諦観し、「あるがままに受け入れ」無批判的に前へ進む、
ある意味、力強い国民でもあるかも知れない。

ただ、このように、繁栄を謳歌した国民が、もう一度どん底から、諦観して這い上がる、というプロセスの前に、前例主義を捨て、決断できる(すなわち責任取れる)国民が、「結果100%成功想定」を捨て、危機管理能力を身につけたら、
どんなにか、将来明るい国家になるであろう、とは容易に想像がつくが・・・

2012年2月20日 

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